大峰庵の日々

時々の思いをつづります。

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神様、仏様。

宗教は語るものではなく、行うものだと思っているので、普段、宗教臭いことは余りしないことにしている話しをしてみます。

神や仏は、何かの折に「ああ、助けられた」と素直に思う心の中に居ます。
誰のおかげで助けられたと言うのではなく、助けてくれる人と会わせてくれた力が神や仏です。
ですから、その不思議を、不思議と受け止められない人には神も仏も居ないということになります。

「ああ、助けてくれたのだな」と素直に感じる心、その心の無い人には神も仏も見えないし、したがって、神も仏も居ないし、助けてももらえないでしょう。

私は、宗教は自分の持っている余計な心を捨て去って、その最後に残ったものが神であり、仏であると観念しています。
いつも引き合いに出す例えですが、石につまずいて転んだことによって、その先で起こった列車事故に遭わなかった人が居ました。
そしてその石に躓かせてくれた力に対して手を合わせる心、それが信仰です。

ここで大切なことは、その石を神仏だと思って、他人にとってはただの石ころを、有り難いから拝めと勧める過ちを犯しがちなことです。
自分だけが大切だと思う石ころを、関係ない他人に拝めと言う間違いを古今の宗教者がどれほど犯してきたでしょう。

宗教はその石ころではありません、
石ころにつまずくことによって、先にあった災難を防いでくれた力、計らい、それが私の言う神や仏なのです。
「観音」というのはその計らい、力を言います。
それを、「アア、助けられたのだな」と感じる心、その心こそ、神仏の心に感応し、助けてもらう基本でしょう。

「神も仏も無い」という人は、石に躓いたのはただの偶然だと思い、石を放り投げ、そのため痛めた足に舌打ちします。そして、こんな目にあったのは神も仏も無いせいだと公言します。

それは、自分が柔らかな心を持ち合わせていないと、恥ずかしいことを告白しているに等しいことです。
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竹内白雅

Author:竹内白雅

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